結局、その夜、アイツは帰ってこなかった。












目を覚ましても、布団の中でぼーっとしていた。
身体と髪にまとわりつく、いつもと違う匂い。
自分でも「ふにゃ」とか「へにゃ」みたいな声を上げてタオルケットを被ったと思う。
残っている篭もった匂いに、胸がドキドキする。
そう、夕べ、私はシンジのヤツに抱かれて…。
そこで私はタオルケットをはね除ける。
枕元を漁って携帯電話を取り出せば、ディスプレイには着歴はなかった。
跳ね起きた私は、アイツの名前を呼ぶ。
「シンジー!?」
立ち上がり、アイツの部屋へ。いない。
一応、お風呂もトイレも見たけど、やっぱりいない。
玄関へ行けば靴はない。
やっぱり帰ってきていないみたい。
急に不安になってきた。
同時に、昨晩、眠ってしまった自分を罵倒する。
どうして眠ってしまったんだろう。
シンジが帰ってくるまで待つつもりだったのに。
そりゃあ私たちチルドレンには四六時中ガードがついているから、夜一人で出歩いても心配はないけどさ…。
でも、さすがに一晩帰ってこないのはおかしい。
もどかしく携帯を操作する。発歴はシンジで埋め尽くされていた。
眠るまで何回もコールはしたんだけど。
もう一回、シンジのナンバーをコールする。
しばらくコール音が響いた後、
『おかけになった電話番号は、現在電波の届かない場所にあるか、携帯に電源が入っておりません…』
聞き飽きた返答。
スイッチを切り、ため息をついた。
この街で、携帯の電波が届かない所はほとんどない。
だとすると、意図的にシンジが電源を落としているのかしら?
なんか憂鬱な気分にもなってきた。
そのままでもしょうがないので、渋々ミサトにかけてみることにする。
実は、あまりミサトの声を聞きたくなかったんだけど。
理由は……昨日の夜のこと。
いくらプライベートに配慮するといっても、このマンションに何らかの監視装置が備え付けられているのは確かだから。
そして私には、それを全て除去する術はなかった。




あっさり三回目のコールでミサトは出てくれた。
『もしもし? どうしたの、アスカ?』
いつもと変わらない口調の声も、返って疑わしく思える。
気を取り直して、私はできるだけ平然とした声を出した。
「えーと、ミサト? シンジのヤツ、夕べから帰ってきてないんだけどさ…」
台詞を途中で遮るようにミサトの返事。
『ああ、シンジくんね。彼は今は入院して貰っているわ』
「え!?」
思わず携帯を握る手に力が籠もる。
いつ? 一体いつの間に、なんで入院したの?
一方的に問い掛けて、必死で耳をすましている自分がいる。
なのに、ミサトの声は呆れるほどあっけらかんとしたもので。
『昨日の夜遅くね。…ほら、この間の使徒戦。酷かったでしょ? リツコと話し合ったんだけど、一応もう一回精密検査させようって…』
頭の中に、紙みたいな手をした使徒が浮かぶ。
私を庇ってくれた初号機。切断された頭部。
不意に手足が冷たくなる。
『もしもし? アスカ? 聞いてる?』
脳天気なミサトの声で、どうにか冷気を追い払う。
私の事を気遣ってくれている声。その時の私はそう思っていた。
『…だからさ、しばらくシンジくんは検査入院させるから』
「そう…」
どうにか返事をする。
確かに、あんな事があったんだから後遺症が出る可能性は高い。
『ご飯は適当に食べておいてね、それと…』
ミサトが何かこまごまとしたことを言っていたけど、全然頭に入らなかった。
逆に、しゃべり終わるのを見計らい、控えめに訊ねた。
「…そ、その!! シンジのヤツ、容態はどうなの…?」
『んー? 昨日の夜、なんか頭が痛いって電話してきたからすぐ入院させたけど、今は落ち着いているみたいよ?』
胸の中を違和感が滑り落ちる。
夕べ、シンジはそんな素振りを見せなかったのに。
それとも、私を心配させないため…?
『どうしたの、アスカ? やっぱりシンちゃんのこと心配?』
あからさまにからかいの混じった声。
「そりゃあね…」
私はそう返すだけで精一杯。
なのに、受話器の向こうのミサトは忍び笑い。
『照れなくてもいいわよ。身を挺して護ってくれたんだもんね、気にもなるわよね…』
即効で通話を切る。
なんか見透かされているみたいで腹が立った。
でも、とりあえずは安心。
あのバカの居場所と無事が確認出来ただけで、十分。
不意にすごく身体が怠くなった。
疲れているのと違って、なにか身体の芯が甘く痺れているみたいな倦怠感。
それでもノロノロとシャワーを浴びにいくことにする。
学校をサボろうかなとも思ったけれど。
どうせシンジのお見舞いに外へでなきゃならないし…。
お見舞いのついでに学校に行くなんてヘンなの。
シャワーを浴びながら、おかしくて笑う。
胸や脇腹、内腿を洗うとき、昨日の感触を思い出して、お腹の奥が熱くなった。
シンジの触れた場所。
多分ホッペタも赤くなって、フラフラと脱衣所に出た私は多分のぼせていた。
シャワーしか浴びていないのに。湯船に浸かっていないのに。
それからいつもの三倍くらい時間をかけて髪を乾かす。
食欲はなくて、制服に着替えた私はマンションを出た。
まっすぐ病院へ行こうかとも思ったけれど、後回しにしよう。
ミサトがニヤニヤ笑いを浮かべて待ちかまえていそうな気がしたから。
学校へは、当たり前のように遅刻だった。




















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

薄暗い中で、僕は膝を抱えている。
膝の中に額を埋めて、何も考えないように努める。
でも、その努力をあざ笑うかのように、あの光景が目蓋に焼き付いて離れない。
淹れられた紅茶の香り。
窓から差し込む淡い月光。
そして――――――宙に揺れている綾波。
手に温もりが蘇る。
綾波の手の温もり。
ひんやりしてて、柔らかかった。
手の温もりが消えていく。
ぶら下がった綾波の足の手触り。
ただそれは冷たくて固くて。
そこにはもうカケラも温もりは残っていなくて。


…掌を床にたたきつける。
激しい痛みに、一瞬だけ記憶が遠のいた。
それだけ。
何回もそれを繰り返している。
何回も思い出している。
どれくらい繰り返したか分からない。
どれほど繰り返すのか分からない。
震える手を握る。
信じられないくらい心が痛い。





















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

学校につくと、ヒカリが呆れた顔をしていた。
「珍しいわね、アスカが遅刻するなんて」
「…ちょっとね」
どうして口ごもってしまうんだろう。おまけに顔を真っ直ぐ見られないじゃない。
別に後ろめたいことがあるわけじゃないのに。
顔を見られないのは、何もヒカリだけじゃない。
クラスの女子。
ファーストの姿が見えなくてほっとする。どんな顔をしようか考えてはいたけれど。
脳天気そうな男子の面々。
その中にシンジの姿もなくて…良かったのかな? ちょっと複雑な気分。
きっと今の私だったら、アイツの姿を見かけただけで、耳の先端まで赤くなってしまう。
…それなりの覚悟はなかったわけじゃないけどさ…。
自分の席で頬杖をつきながら考える。
昨夜の出来事。
生々しい感触が甦る。
お互いに夢中だったから…って、私は昼間から何思い出しているのよ!?
顔を伏せ、何もない机を見下ろした。髪がブラインドになってくれているはず。
胸の上に手を当てる。
スキップしそうなくらいドキドキしていた。
ゆっくりと数を数えて、落ち着こうとする。
アイン・ツヴァイ・ドライ・フィーア・フュンフ・ゼクス・ズィーベン・アハト・ノイン………。
どうにか落ち着いて周囲を見回した。
もしかしたら、私は、私たちは、このクラスの中でもかなり進んでしまったかも知れない。
もう女の子じゃないのよね私…。
またホッペタが熱くなる。
思わず頭を抱えてしまいそうになるのを必死で我慢。
「ねえ、アスカ。碇くんはどうしたの?」
いつの間にかヒカリが席の前に来ていた。
「ああああああ、アイツはちょっと病院へね…!!」
「病院? どこか悪いの?」
「け、検査よ検査」
どうしても視線を合わせられなかった。自分でも信じられないくらい狼狽している。
変なアスカ、とクスリと笑ってヒカリは行ってしまった。
詮索されなくて色々助かったけど、結構カンの鋭い彼女のことだから何か気づいたかも知れない。
いきなりマズかったかなあ。不審すぎたかも。何かあったから訊いてください、っていってるみたいじゃない…。
おかげで、授業が始まっても全然身が入らなかった。
照れくさいんだけど、うれしがっている自分がいる。喜んでいる自分がいる。
だって、このクラスの中にいるかしら?
恋人同士や他のクラスに恋人がいる人もいるだろう。
だけど、こんな風に告白された人は、絶対にいない。
シンジの顔を思い出す。
一生、私だけしか好きにならないって誓ってくれるヤツなんて。
こういうのを優越感っていうのかな。
「なにニヘニヘしてるの?」
ヒカリの声。遠く鐘の音。
どうやら顔に出てしまっていたみたい。慌てて引き締める。
「な、何でもないわよ」
あらそう?、なんて言ってからヒカリは首を捻る。
「で、アスカは今日のお昼はどうするの? お弁当ないんでしょ?」
言われて初めて気づいた。シンジがいないんだから、当然お弁当も準備されているわけがない。
ヒカリに付き合ってもらって購買部に買いにいくことにした。
あまり食欲がないから、サンドイッチを一個に苺牛乳だけ。
二人だけで屋上で食べた。
「…ねえ、今日も鈴原のお見舞いにいくの?」
サンドイッチを囓りながらいう私。
「うん」
なんのためらいもなくいうヒカリを優しく眺めてしまう。
…この二人はきっとうまくいくだろう。
二人とも幸せになって欲しい、なんて思ってしまったのは、なんていう感情だろう?
いたわり? 勝者の余裕? …自分で言ってて恥ずかしいや。
「アスカも行くの? お見舞い」
「…うん」
サンドイッチを囓りながら私は頷いた。
すぐになんとなく面白そうな視線が頬にささってきたのが分かる。
「ふーん…」
意味ありげにヒカリが笑っている。
「な、なによ…」
「うん、今日のアスカは素直だなーって思って」
「………」
動揺してしまった。
そっぽを向いて牛乳を啜る。
それ以上ヒカリが追求してこなかったのは助かった。
でも、いずれ彼女には話そう。
私とシンジのことを。
だけど、今は。
もう少しだけ、この気持ちは私の中に閉じこめておきたい。




















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

この場所に来て、どれほどの時間が経ったのだろう。
あの直後、確かにどこかへ連絡したのを覚えている。
宙に浮かんだままの綾波は酷く可哀想で、でも僕には下ろすことは出来なかったから。
だから、ネルフの人たちが駆けつけるまで、ずっと綾波の足を支えていた。
冷たくなっていく綾波の足。
彼女の足はもとから冷たかったのだろうか。
薄くなっていく紅茶の香り。
必死で僕は何かを叫んでいたような気がする。
下ろされて運び出された綾波と別の車に乗せられた。
ここは、どこなのだろう?
今更ながら、僕は周囲を見回す。
昔入れられた独房に似ている。
いや、たぶん同じ場所だろう。
薄暗く、狭く、何もない。
誰もいない。
僕一人だけ。
僕一人だけのはずなのに。

『はん、ファーストもいい面の皮ね』

アスカの声が聞こえる。
違う。これはアスカの声じゃない。
空耳だ。
僕は膝の間に顔を埋めたまま、上げない。

『あんた、私だけでなくファーストまで…』

「うるさいっ!!」
顔を上げる。
誰もいない。
…少し眠っていたのだろうか。
それとも、この光景は。
今、僕がいる場所は。


階段下で膝を抱える僕。
無理矢理ミサトさんに立たされる僕。
引きずられる僕。


…だって  

乗れないんだもの…

エヴァに

しょうがないじゃないか





砂浜に横たわるアスカ。
彼女の首を絞めているのは。


僕の……?









うわあああああああああああああああああああっ!!








頭を跳ね上げる。
相変わらず薄暗い部屋。
首筋にじっとりと汗をかいている。
拭おうとした手が何かに触れた。
包帯の巻かれた手が僕の首筋を。
悲鳴をかみ殺す。
片目だけの青い瞳が笑っている。






目蓋を開けた。
やはり部屋には誰もいなくて。
「夢だったのか…」
呟く。
『夢じゃないわよ』
耳元で囁かれた。
『アンタは、私を見殺しにした。そしてファーストまで絶望させて殺したのよ』
顔の前に回ってくる手。
包帯を巻かれた見慣れた手。
綺麗なままの知らない手。
『アンタは誰も救えやしないわ…』


手を振り払い、膝の間に顔を埋める。
歯を食いしばり、頭の中で繰り返す。
これは夢だ。
目を覚ませば、僕はきっとベッドに寝ていて。
綾波が僕を見下ろしていて。
アスカが入り口でこっそり中の様子を窺っているんだ。
僕に見つかると、反射的に隠れる姿が面白くて。
だから早く目を覚まさなきゃ…。
……………。
………。
……。






だけど。
頭に浮かぶのは。



寂しそうな彼女の瞳。
怯えた彼女の声。
拒絶されるのを恐れる彼女の声…。


“ アンタ…もう一生他の誰も好きにならないって… 私だけを好きでいるって 誓える? ”



僕は答える。


安心したようなアスカの顔。
はにかむような笑顔。




…僕は、アスカを失いたくない。
この笑顔を、忘れたくない。
だから、きっと、これは夢じゃない。
違う。
夢にしたくない。
夢にしたくないんだ…。




















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

私は自分でも信じられないくらいイライラしていた。
理由はあまりにも明白すぎる。
シンジに会えないからだ。
最初にいったとき、精密検査中で時間がかかるからときいて、渋々引き上げてきたのはまだいい。
でも、次の日も精密検査中。
次の次の日も精密検査。
さすがに頭に来て検査室へ飛び込もうとしたのを止められて、結局シンジに会えずじまい。
ミサトに連絡しても『仕方ないでしょ』の一点張りだし。
さすがにキナ臭くなってくる。というか、これで何も感じ取れないヤツってバカじゃない?
オマケに、ファーストのヤツまでずっと学校を休んでいるのも気になる。
…まさか、二人して秘密の特訓?
昔、私とシンジがしたみたいに。
でも、秘密にする意味が分からない。
色々と疑問は尽きないけど確かめる手段もなく、私はマンションで一人暮らしを強いられた。
いい加減、掃除や洗濯にも慣れてきたけど。
寂しくて、夜、枕やペンペンに何回八つ当たりしただろう。
ミサトのヤツも出張が重なったとかで全然帰ってこないから、問いつめようもないし。
相談しようにも加持さんも音信不通だし。
…シンジの料理が食べたい。
カップラーメンやコンビニのお弁当を食べながら思う。
だいたい確実に健康に悪いだろうし。
夜、寂しくて、アイツの部屋で眠ることもある。
どうして、ここまでアイツが恋しくなったのかなあ…?
薄闇の中、目を凝らす。
何もない空間に浮かぶ光景。
何度も繰り返し思い出しては、私は長い夜を過ごしていた。
私を護るように立ちはだかる初号機の背中。
アイツの言葉が耳の奥で木霊する。


『僕はね アスカが好きなんだ 誰にもアスカのかわりなんてなれないんだよ』


心が温かくなるのに反して、身体が切なくなった。
…アンタだって、かわりなんかいないのよ。
指でシーツの縁をなぞる。
寒くもないのに、頭までタオルケットを被った。
ただ、シンジと抱き合いたかった。
抱き合ったまま、ぐっすりと眠りたかった。
せっかく抱き合う気持ちよさを知ったのだから。
もっと、抱き合いたいよ。一緒にいたいよ…。
安心して眠れない日々が続く。
夜中に跳ね起きて、アイツの携帯電話にかけることもある。
でも、相変わらずの不在音声。
病院は携帯電話禁止なのはわかるけど。
そっちから電話をかけるくらいできるでしょ。
せめて声くらい聞かせなさいよ!
寝不足の怒りも手伝って、力任せに投げ捨てた。
つくづく最近の携帯は丈夫で良かったと思う。



「アスカ大丈夫? 酷い顔になってるわよ…?」
学校でヒカリにそう言われた。
分かっているわよ、と怒鳴りそうになってしまう自分を必死で戒める。
不機嫌な顔のまま机に突っ伏す。
鉛が詰まったような頭で考える。
この状態、さすがに異常だ。
私自身はもちろん、ネルフの対応も附に落ちないところが多すぎる。
シンジが精密検査なのはまだいい。以前もあったことだし。
じゃあ、なんで、アイツに会わせてもらえないのよ? この前までは会えたのに。
面会謝絶と言い渡されたわけでもないのに、携帯はともかく病院の電話も繋いで貰えないのは妖し過ぎる。
それにファースト。
ファーストのヤツも休むことは少なくなかったけど、これほど連続で休むのは珍しい。
ちなみに、ファーストの家にもいったけど留守みたい。
だったらとネルフ本部の方を探してもみたけれど、そっちでも見かけない。
一度、リツコにも訊ねてみたけれど、「ああ、レイも検査、訓練中なのよ」と、後はどう訊ねても見事なまでの官僚答弁。
逆に、この間壊れた初号機の修理費がどうとかいってきたので慌てて逃げてきた。
いつもと変わった素振りは見られない。
いつも通りのスタッフの対応。
それでも思う。
誰かが何かを隠している。
私とシンジを会わせないようにしている。
でも、なんで?
もしかして、えーと、私とシンジが、そのしちゃったから……?
それに、ファーストのことも関係があって…?
顔を上げ、頭を振り、頬を張る。
今日だ。
今日、意地でもシンジのヤツに会ってやる。
会えるまで病院から帰らない。
最悪、弐号機への搭乗をボイコットしてやってもいい。



そう覚悟を決めて、私は病院へと向かった。




















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

僕は綾波のことが好きだったんだろうか?
繰り返し思い出す。
初めて彼女と会ったとき。
初めて彼女に触れたとき。
彼女の台詞。
彼女の笑顔。


それを僕は愛おしいと思ったのだろうか。


意識しなかったと言えば嘘になる。
好きじゃなかったといえば嘘になる。
でも。


アスカが。
僕には、アスカの方がより近くて。
ううん、違う。
綾波は僕に似てなかったんだ。
綾波はお母さんみたいな感じで。
だって綾波は父さんの方が好きなんだろ?
だって綾波は…。



膝に爪を立てる。
固い壁に後頭部を打ち付けた。
ため息を吐く。
少し落ち着いてしまう自分に腹がたった。
言い訳をしている自分にはもっと腹がたった。
ぼんやりと、何もない腕の中を見つめる。



きっと綾波は、僕のことが好きだった。
だから、アスカだけを見始めた僕に嫉妬したんだ。

――――青いコンタクトをはめて。
――――頭からアスカの色に染まって。
――――『髪も…少し待ってもらえばすぐに…セカンドと同じ長さになるわ』

でも、僕はアスカを選んだんだ。
僕はアスカだけを望んだ。






そして彼女は死を選んだ。






じゃあ、どうすれば良かったんだよ!!

唇を噛みしめ、髪を掻きむしる。
僕はどうすれば良かったんだ?
いっそ、綾波を選べばよかったのか?
いや、そうしなくても、もっと綾波を気にかけてやっていれば…。
綾波を避けたりしなければ。
きっと綾波は笑って……





きっと、綾波は、笑いながら、宙に、







………誰か、もう一回僕の目を覚まさせて!!
目を開けたらベッドの上で、何もかも夢にして。
だって、一回は夢にみたんだから。
もう一回くらい見ても大丈夫だろ?




願いながら僕は目蓋を閉じて微睡む。
直後に、後悔の波が心の奥から押し寄せてくる。




でも、新しい世界でアスカは笑っているだろうか。僕はアスカを助けられるのだろうか。



悲しみながら僕は目を覚ます。
正しい答えなんかわかりっこない僕の耳に、彼女が囁いた。




『自分のしたことを精々悔やむといいわ』




アスカの声に僕は叫ぶ。
お願いだから、謝るから、もうこれ以上僕を苛めないでよ! 
ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん…!!
だから、許して。
君を傷つけたことを。
君を救えなかったことを。


必死で祈る。
必死で願う。
誰に?
何に?
もし神様がいるのなら。
どうか、どうか……

そこで気づく。


一体僕は何を願えばいいんだろう。どう願えばアスカも綾波も、キミさえも救えるんだろう。


傷だらけのアスカは答えてくれない。
ただ僕を見下ろしている。
目が、青い片方だけの瞳が、背筋が凍えるほど冷たい。



アスカは、こんな目で僕を見ない。
僕が見たアスカの瞳は。
縋るような怯えた瞳で、そこに明かりを灯せたことがなにより嬉しかったのに。
だから彼女はアスカじゃない。
きっとこれは夢なんだ…。



もう誰の声も聞こえなかった。
静かな中で、幾度となく僕は冷たい壁をなぞる。
それは現実へと戻る儀式みたいなもの。
綾波ではなく、アスカを選んだ現実への。
もう綾波は帰ってこない。なのに僕はもう涙すらでない。
今の僕はひたすらアスカに触れたかった。彼女の温もりが欲しかった。


………世界にアスカしかいない錯覚。きっとアスカだけが僕を見つめてくれる現実。

僕は、アスカだけでいいのかも知れない。

会いたいな、アスカ…。













扉の開く音に、反射的に僕はそちらを向いてしまう。
もう食事だろうか? でも食欲はない…。
廊下から差し込む光に目を細める。
そこに立っていたのは、見慣れた人だった。どっちにしろ久しぶりだったけど。
「落ち着いた、シンジくん?」
驚くほど優しい声でリツコさんは言った。
自分でも分からないまま僕は頷く。
実際、これ以上この部屋に篭もっていたくはなかったけれど。
むしょうに、アスカに会いたかった。
生きている人の温もりに触れたかった。
促されるままに廊下に出た。
決して綺麗な空気じゃないんだろうけど、変わった匂いに僕は欠落していた記憶を取り戻す。
綾波と一緒にネルフまで連れて来らた僕は、きっと取り乱していたのだろう。
だから、この独房に隔離された。
でも、どれくらいの間ここにいたのかはよく分からない。
何度か食事はしたけど、数えていたわけじゃないから…。
「…レイは重体だけど一命は取り留めたわ。これもシンジくんの素早い連絡のおかげね」
「…え?」
思いがけないことをリツコさんは言った。
綾波が重体?
そんなわけはない。
あの時触れた彼女の冷たさは、生きていたものですらなかったのだから。
…そういうことか。
僕は知っていた。
綾波には予備がいる。言葉通りの予備が。
でも、それは彼女であって彼女じゃない。
僕を好きだった彼女ではなくて…。
胸が重くきしむ。
その重さに任せて僕は俯いた。
保安部の人たちと一緒に、僕はどういうわけか病院へと連れていかれた。
「貴方は、入院したことになっているから」
リツコさんはそうとだけ教えてくれた。
綾波のことを訊こうとして、止めた。
そう、僕は、彼女の秘密は知らないはずなのだから。
代わりに、僕も一つだけ訊ねる。
「ここに居た時の僕は……何かおかしなこと叫んだりしてましたか?」
「……おかしなこと?」
「……いいえ、何でもないです…」
車の中で返された携帯電話は、バッテリーが切れていた。




















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

その日、病院へ向かった私は、拍子抜けするくらい簡単にシンジの病室へと案内された。
まるで生活感のない病室には、ぽつんとシンジが立っていた。
学生服のまま、ベッドにも横にならず。
「…シンジ!」
アンタ、なに今まで連絡よこさないのよ。
どれだけ心配したと思ってるの。
夜中にこっそりいなくなってさ。
それより、身体は大丈夫なの?
いくつもぶつけてやろうと用意してた言葉。
結局一つも出せなくて、代わりに喉を詰まらせてくれた。
「アスカ…」
きっとシンジも私と同じような表情をしていた。
安心したような、泣きたいような声で私の名前を呼んだシンジは、そっとそばまでやってくる。
そのままコツンと私の肩あたりに額を当てる。
泣いてはいなかったけど、身体が微妙に震えを伝えてきた。
懐かしい匂いに胸が詰まる。ちょっと汗くさいけどシンジの匂いだ。
「連絡しなくて、ごめん。…疲れたよ。早く帰りたい…」
それだけ告げてくるシンジが、とても弱々しく見えて。
抱きしめたくなったけど、結局、手を掴んで病室を出た。
家に帰るまでは、この温もりで我慢しよう。
今、確かにシンジはここにいるのだから。
力を込めて引っ張れば、シンジも少し顔を上げてくれた。
ちょっとだけ笑みが浮かんでいて、私も胸をなで下ろす。
廊下に吊された看板を頼りにエレベーターへ。
角を曲がった先に見えた光景に、思わず握った手に力が入る。
廊下に、病院着を着たファーストが立っていた。
窓の外を眺めていて、こちらに気づいていないみたい。
当たり前だけど、無事な姿に少しだけ安心する。
レイ。
口の中で呟いてみる。
この間の夜、決めたんだ。
ファーストではなく名前で呼ぼうって。
「レ…!」
直後、シンジに強く手を握られた。
見ると、顔を伏せたシンジ。険しい表情。
ようやく私も理解する。
ファーストは知らないだろうけど、私は知っている。
ファーストがシンジに告白したことを。
そして、シンジは私を選んでくれたことを。
なのに、二人で仲良くファーストの前に出るのは、あまりにも無神経がすぎる。
頷いて、私たちはきびすを返す。
反対側の廊下から大きく迂回してエレベーターに乗り病院を出た。
病院を出るまで、誰にも会わなかった。






マンションに帰り着いた直後、玄関で靴を脱ぐのももどかしく私はシンジに抱きしめられた。
振り払わず、もつれ合うようにリビングを通過して、私の部屋になだれ込む。
不意にシンジの方からキスをしてきた。
久しぶりの温もりが、私を溶かす。
久しぶりといっても一週間もたってやしないけどね…。
そう皮肉ったところで、抱き合いたい欲求は全然宥められない。
離した唇が腫れ上がってるみたいに熱い。
ベッドに倒れ込んで、私の胸に顔を埋めるシンジ。
その頭を私は撫でる。
どうしてこんなに他人の温もりは気持ちがいいんだろう?
ううん、きっと他人じゃなくて、アンタだから気持ちがいいのよ。
私を、私だけを見続けてくれる……大事なひと。
そっと、自分にも聞こえないくらい小さく呟いた。
気づけば、シンジが私の顔を見ていた。
今まで見たこともないほど真剣な顔をしている。少し怖く思えるくらいに。
「…僕は、アスカのことが好きだ」
右手が私の胸の上に置かれた。いやらしい感じじゃなく、まるで私の鼓動を確かめるみたいに。
左手は私の右頬へ。手が震えていた。瞳が潤んでいた。
「僕は、アスカだけでいい…」
私が頷くと同時に、シンジの手が服にかけられていた。
乱暴な手つきだったけど、私は逆らわなかった……。






疲れ果てたらしく泥のようにシンジが眠っている。
かくいう私も疲れていたけれど、シンジの寝顔を眺めていたくて、頑張って起きている。
こうやって眺めていないと、この間みたいにこっそりいなくなりそうで不安だったし。
無防備なほっぺたをつつく。なんか痩せてしまったみたい。
かなり強く弄っても、全然目を覚ます気配はなので、鼻もつまんでみる。
フガフガいうけど、やっぱり目を覚まさない。
代わりに寝言が飛び出してきた。


「…ごめん、アスカ、ごめん…」


…なんで夢でまで私に謝っているんだろう、コイツは?
ちょっと可笑しくて、それでも愛おしい。
コイツは、全部私のモノ。
そして私は全部シンジのモノだ。
胸の奥がひたすら温かくなる。
そっとホッペタにキスをして、その腕の中に私も潜り込んだ。
心地よい温もり。親しみのある匂い。
ここが今の私が一番安心する場所。
全てに包まれながら眠りに落ちる寸前、思う。













シンジが私だけでいいっていってくれるように、私もシンジだけでいい。

お互いだけで構わない。

二人なら、きっとなにも怖くない………。